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第19話 一人遅れる鏡

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-08-15 11:13:05

 西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。

 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。

 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。

 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。

 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。

 舞踊室。

「ここ……」

 奈々香が足を止めた。

「覚えてる」

 声は小さい。

 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。

「八年前に来たよね」

「来た」

 悠斗が答えた。

 迷いのない声だった。

「ここの鏡が七不思議の一つだった」

 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。

 細い隙間から、埃の積もった床が見える。

 糸や配線はない。

「どんな噂だった?」

 美月が悠斗へ尋ねる。

 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。

「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」

 低い軋みとともに扉が開く。

「最後の一人だけ、鏡の中に残される」

 舞踊室の暗闇が現れた。

「残った奴は、翌朝までに消える」

 澪の背中を冷たいものが走った。

 部屋は細長かった。

 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。

 そして、左側の壁一面。

 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。

 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。

 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。

 澪。

 朔。

 美月。

 悠斗。

 奈々香。

 五人。

 鏡の中にも五人。

 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。

「当時は何も起きなかった」

 悠斗が部屋へ入りながら言った。

「澄花がふざけて隠れただけだった」

 澪は顔を上げた。

「隠れた?」

「ああ」

「ここで?」

「そうだ」

 悠斗は当然のことのように答える。

「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」

「裏って、どこ」

「カーテンの向こうか何かだっただろ」

 澪は舞踊室を見回した。

 壁際にカーテンはない。

 記憶の中にも、その場面はなかった。

 八年前、ここへ来たことは覚えている。

 鏡の前に七人で並んだ。

 奈々香が「絶対後ろ見ないからね」と騒ぎ、透が録音機を床へ置いた。

 澄花は一番端にいて、鏡へ指で何かを書いた。

 そこまでは思い出せる。

 だが、澄花が隠れた記憶はない。

「私、覚えてない」

 澪が言うと、悠斗は眉を寄せた。

「お前は覚えてないことだらけだろ」

 言葉は鋭かった。

 美月がすぐに悠斗を見る。

「言い方」

「事実だ」

「だからって、悠斗の記憶が正しいとは限らない」

「俺は忘れてない」

 その答えだけが、妙に強かった。

 朔が二人へ顔を向けずに言う。

「記憶の照合はあとだ。先に部屋を調べる」

 小型カメラを三脚へ固定し、舞踊室の入り口寄りに設置する。

 レンズには鏡全体と、五人が歩く予定の床が入っていた。

「映像は連続で残す。誰もカメラの前を横切らない」

「本当に歩くの?」

 奈々香が鏡を見ないよう俯いた。

「さっきのこと忘れたの? 鏡なんてもう見たくない」

「歩く必要はない」

 美月が言う。

「指示にはここへ来いとしか書かれてない」

 奈々香のスマートフォンには、まだ三つ目、西棟一階、姿見の廊下と表示されている。

 終了を示す印はついていない。

「何もしなければ、また閉じ込められる」

 悠斗が吐き捨てた。

「だったら早く済ませよう」

「一度だけ」

 朔が言った。

「異常があれば止める」

 五人は鏡の前へ横一列に並んだ。

 朔。

 澪。

 美月。

 奈々香。

 悠斗。

 肩が触れない程度の間隔。

 鏡にも同じ並びが映る。

「端まで歩いて戻る」

 朔がカメラの録画表示を確認した。

「足元だけ見るな。鏡も視界に入れておけ」

「何で」

 奈々香の声が硬い。

「何か起きたとき、全員が見ていた方がいい」

 朔が歩き出す。

 一往復目。

 五人の靴音が木の床へ揃って響いた。

 鏡の中の五人も、同じ速度で歩く。

 端へ着く。

 向きを変える。

 戻る。

 異常はない。

「ほら」

 悠斗が息を吐く。

「何もない」

 スマートフォンは反応しなかった。

「もう一度だけ」

 朔が言う。

 二往復目。

 澪は鏡の中の自分を見る。

 青ざめた顔。

 濡れた髪。

 手帳を入れた胸元。

 そこには、澄花の字が残る楽譜が隠されている。

 朔には見せていない。

 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。

 その一文が、鏡の向こうで自分の胸に貼りついているように感じた。

 何かがずれた。

 澪は視線を右へ移す。

 鏡の中の悠斗が、半歩遅れていた。

 現実の悠斗は、澪たちと同じ位置を歩いている。

 だが鏡像だけが、右足を踏み出す瞬間を僅かに遅らせる。

 現実。

 一歩。

 鏡。

 一拍遅れて、一歩。

「止まって」

 澪が言った。

 全員が止まる。

 鏡の中の悠斗だけが、もう半歩進んだ。

 そして止まった。

「今の見た?」

 澪の声が震える。

 美月が鏡を凝視する。

「悠斗だけ遅れた」

「映像の乱れだろ」

 悠斗はすぐに言った。

「鏡に映像の乱れなんてない」

「目の錯覚だ」

「五人で同じものを見てるのに?」

 奈々香の声が掠れる。

 悠斗は鏡へ近づき、表面へ手を触れた。

 指先と鏡像の指が重なる。

「ただの鏡だ」

 朔がカメラの映像を確認する。

「撮れてる。今の遅れも入ってる」

「なら原因を探せ」

 悠斗が荒く言った。

「三回目だ」

「まだやるの?」

 奈々香が叫びかけた。

 美月が彼女の腕へ触れる。

「嫌ならやめていい」

「やめたら帰れないかもしれないんでしょ」

「それは決まってない」

「透だって、決まってないって言って一人になった!」

 奈々香は涙を拭い、鏡の前へ戻った。

「やる。早く終わらせる」

 三往復目。

 今度は全員、鏡から目を逸らさなかった。

 半分まで進んだところで、奈々香の鏡像が止まった。

 現実の奈々香は歩いている。

「奈々香」

 美月が呼ぶ。

「止まらないで」

「止まってない!」

 奈々香は歩き続ける。

 鏡の中では、彼女だけが舞踊室の中央へ残ったままだ。

 現実の奈々香が鏡像から遠ざかる。

 鏡の中の奈々香は、五人を見送るようにこちらを向いている。

「私、あそこにいる」

 奈々香の唇が震えた。

「でも、ここにもいる」

 鏡像の奈々香が口を開いた。

 声は聞こえない。

「何か言ってる」

 澪が立ち止まりかける。

「歩け」

 朔が低く言った。

 全員で端まで到達する。

 振り返る。

 鏡像の奈々香が、ようやく動き始めた。

 一人で。

 ゆっくりと五人へ追いつき、現実の奈々香の位置へ重なる。

 その瞬間、鏡面全体が波打った。

 奈々香が息を詰める。

「もうやめよう」

 美月が言った。

 朔はカメラを確認した。

 スマートフォンはまだ終了を示していない。

 悠斗が歯を食いしばった。

「あと一回」

「悠斗」

「七不思議の噂は、何往復か決まってなかった。条件を満たしてないだけかもしれない」

「さっきは何も起きなかったって言ったでしょう」

「だから終わらせるんだよ!」

 声が鏡へ反響する。

「全部、誰かの仕掛けなんだ。確認すれば終わる」

 四往復目。

 五人は歩き出した。

 澪は数を数えないようにした。

 それでも鏡の中へ目を向けた瞬間、足が止まりそうになった。

 六人いる。

 朔。

 澪。

 美月。

 奈々香。

 悠斗。

 その後ろ。

 長い黒髪の少女。

 制服の裾が、歩くたび膝の位置で揺れている。

 右手首に赤い組紐。

 顔は俯いて見えない。

 現実の舞踊室には誰もいない。

 背後から聞こえるのは五人分の足音だけ。

「見える?」

 澪が囁いた。

「いる」

 美月の声が硬い。

「後ろに」

 奈々香の呼吸が乱れる。

「もう嫌……」

 悠斗が突然列から外れた。

「くだらない」

 壁際に積まれていた木製の椅子を両手で掴む。

「全部、壊せば分かる!」

「待て!」

 朔が止めるより早く、悠斗は椅子を鏡へ投げつけた。

 激しい破裂音。

 鏡板が大きく割れた。

 破片が床へ雨のように降る。

 奈々香が頭を庇い、美月が澪を壁側へ押す。

 悠斗は息を荒らし、割れた鏡を睨んでいた。

 その向こうに、壁はなかった。

 暗い空間。

「何だ……これ」

 悠斗が呟く。

 朔が懐中電灯を向ける。

 割れた鏡の裏には、細長い別室が隠されていた。

 金属製の棚。

 小型プロジェクター。

 複数のカメラ。

 配線。

 そして、鏡と同じ大きさの半透明板が何枚も並んでいる。

「一方通行の鏡だ」

 朔が割れた枠を慎重に越えた。

「全部じゃない。一部だけ普通の鏡と入れ替えてある」

 美月も裏側を覗く。

 カメラの一台は舞踊室の床を撮影する角度へ向いていた。

 その映像を数秒遅らせ、半透明の鏡板へ重ねる。

 そうすれば。

「一人だけ動きを遅らせられる」

 澪が言った。

「映像を切り抜いて、そこだけ時間をずらせば」

「奈々香が止まったのも作れる」

 朔が答える。

 悠斗が乾いた笑いを漏らした。

「ほら」

 笑みは安堵より怒りに近い。

「七不思議なんて最初からなかったんだ。誰かがこうやって作ってた」

 裏部屋には、最近まで人がいた痕跡があった。

 新しい乾電池。

 空になったペットボトル。

 携帯食の包装。

 まだ埃の積もっていない工具。

 床には靴跡が残っている。

 大きい。

 成人男性のものだった。

 朔が光を斜めから当てる。

 靴底の溝がはっきり見える。

「二十七から二十八くらい」

 美月が五人の足元を見る。

 女性三人の靴より明らかに大きい。

 同じくらいなのは、朔と悠斗だった。

 奈々香の視線が二人へ移る。

 朔は何も言わず、自分の右足を持ち上げた。

 靴底を見せる。

 細かな格子状の溝。

 床の足跡は、中央へ太い直線が一本通り、その左右に斜めの模様がある。

「違う」

 美月が確認する。

 次に、悠斗の靴へ視線が向いた。

「俺じゃない」

 悠斗は先回りするように言った。

 だが、靴底を見せるまでに一拍遅れた。

 床へ片足を上げる。

 太い中央溝。

 左右へ斜めに入った模様。

 よく似ている。

 奈々香が後退した。

「悠斗……」

「違う!」

 声が裏部屋へ響いた。

「こんな靴、いくらでもある。仕事で現場へ行く人間なら普通に履く。管理会社の人間だってこの学校に入れるだろ」

「管理会社の人間が、私たちを殺す理由は?」

 美月が訊く。

「知らない!」

「その共通鍵を持ってきたのも悠斗よ」

「借りたって説明しただろ!」

 悠斗の額に汗が浮いている。

「俺が仕掛けたなら、何で自分の足跡を残すんだ。何で自分の時計や靴が疑われる形にする!」

「疑われないと思ったからかもしれない」

 奈々香の声は小さかった。

 悠斗が彼女を見る。

 奈々香はさらに後ろへ下がった。

「俺じゃない」

 今度の声には怒りより恐怖があった。

「本当に俺じゃない」

 澪は割れた鏡へ視線を戻した。

 床に落ちず、枠へ残っている三角形の破片。

 そこに、人影が映っていた。

「透……?」

 声が勝手に漏れた。

 ほかの四人が振り返る。

 鏡の破片の中。

 五人の後ろに、相馬透が立っている。

 黒いパーカー。

 首から下げたヘッドフォン。

 首元には、磁気テープの黒い跡。

 二年七組へ残してきたはずの死者。

 澪は振り返った。

 誰もいない。

 鏡を見る。

 透はいる。

 顔色は死人のように白い。

 唇が動いた。

 音は聞こえない。

「何て言ってる?」

 美月が鏡へ近づく。

 透がもう一度、ゆっくり口を動かした。

 か。

 い。

 だ。

 ん。

 へ。

 い。

 く。

 な。

「階段へ行くな」

 澪が読み取った。

 透の目が、まっすぐ澪を見た。

 次の瞬間、校内に非常ベルが鳴り響いた。

 けたたましい警報音。

 五人が身体を強張らせる。

 赤い非常灯が廊下の向こうで点滅する。

 東棟の方角から、何かが落ちる音がした。

 どん。

 一段。

 どん。

 また一段。

 人間よりも重い何かが、階段を転げ落ちている。

 どん。

 どん。

 どん。

 音は少しずつ近づいてきた。

 澪がもう一度鏡を見る。

 透の姿は消えている。

 代わりに鏡の破片には、東棟の階段だけが映っていた。

 そこを、黒い布に包まれた人の形が、頭から一段ずつ転がり落ちていた。

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