ログイン西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。
代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。
東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。
それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。
曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。
舞踊室。
「ここ……」
奈々香が足を止めた。
「覚えてる」
声は小さい。
左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。
「八年前に来たよね」
「来た」
悠斗が答えた。
迷いのない声だった。
「ここの鏡が七不思議の一つだった」
朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。
細い隙間から、埃の積もった床が見える。
糸や配線はない。
「どんな噂だった?」
美月が悠斗へ尋ねる。
悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。
「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」
低い軋みとともに扉が開く。
「最後の一人だけ、鏡の中に残される」
舞踊室の暗闇が現れた。
「残った奴は、翌朝までに消える」
澪の背中を冷たいものが走った。
部屋は細長かった。
奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。
そして、左側の壁一面。
端から端まで、巨大な鏡で覆われている。
幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。
表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。
澪。
朔。
美月。
悠斗。
奈々香。
五人。
鏡の中にも五人。
赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。
「当時は何も起きなかった」
悠斗が部屋へ入りながら言った。
「澄花がふざけて隠れただけだった」
澪は顔を上げた。
「隠れた?」
「ああ」
「ここで?」
「そうだ」
悠斗は当然のことのように答える。
「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」
「裏って、どこ」
「カーテンの向こうか何かだっただろ」
澪は舞踊室を見回した。
壁際にカーテンはない。
記憶の中にも、その場面はなかった。
八年前、ここへ来たことは覚えている。
鏡の前に七人で並んだ。
奈々香が「絶対後ろ見ないからね」と騒ぎ、透が録音機を床へ置いた。
澄花は一番端にいて、鏡へ指で何かを書いた。
そこまでは思い出せる。
だが、澄花が隠れた記憶はない。
「私、覚えてない」
澪が言うと、悠斗は眉を寄せた。
「お前は覚えてないことだらけだろ」
言葉は鋭かった。
美月がすぐに悠斗を見る。
「言い方」
「事実だ」
「だからって、悠斗の記憶が正しいとは限らない」
「俺は忘れてない」
その答えだけが、妙に強かった。
朔が二人へ顔を向けずに言う。
「記憶の照合はあとだ。先に部屋を調べる」
小型カメラを三脚へ固定し、舞踊室の入り口寄りに設置する。
レンズには鏡全体と、五人が歩く予定の床が入っていた。
「映像は連続で残す。誰もカメラの前を横切らない」
「本当に歩くの?」
奈々香が鏡を見ないよう俯いた。
「さっきのこと忘れたの? 鏡なんてもう見たくない」
「歩く必要はない」
美月が言う。
「指示にはここへ来いとしか書かれてない」
奈々香のスマートフォンには、まだ三つ目、西棟一階、姿見の廊下と表示されている。
終了を示す印はついていない。
「何もしなければ、また閉じ込められる」
悠斗が吐き捨てた。
「だったら早く済ませよう」
「一度だけ」
朔が言った。
「異常があれば止める」
五人は鏡の前へ横一列に並んだ。
朔。
澪。
美月。
奈々香。
悠斗。
肩が触れない程度の間隔。
鏡にも同じ並びが映る。
「端まで歩いて戻る」
朔がカメラの録画表示を確認した。
「足元だけ見るな。鏡も視界に入れておけ」
「何で」
奈々香の声が硬い。
「何か起きたとき、全員が見ていた方がいい」
朔が歩き出す。
一往復目。
五人の靴音が木の床へ揃って響いた。
鏡の中の五人も、同じ速度で歩く。
端へ着く。
向きを変える。
戻る。
異常はない。
「ほら」
悠斗が息を吐く。
「何もない」
スマートフォンは反応しなかった。
「もう一度だけ」
朔が言う。
二往復目。
澪は鏡の中の自分を見る。
青ざめた顔。
濡れた髪。
手帳を入れた胸元。
そこには、澄花の字が残る楽譜が隠されている。
朔には見せていない。
朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。
その一文が、鏡の向こうで自分の胸に貼りついているように感じた。
何かがずれた。
澪は視線を右へ移す。
鏡の中の悠斗が、半歩遅れていた。
現実の悠斗は、澪たちと同じ位置を歩いている。
だが鏡像だけが、右足を踏み出す瞬間を僅かに遅らせる。
現実。
一歩。
鏡。
一拍遅れて、一歩。
「止まって」
澪が言った。
全員が止まる。
鏡の中の悠斗だけが、もう半歩進んだ。
そして止まった。
「今の見た?」
澪の声が震える。
美月が鏡を凝視する。
「悠斗だけ遅れた」
「映像の乱れだろ」
悠斗はすぐに言った。
「鏡に映像の乱れなんてない」
「目の錯覚だ」
「五人で同じものを見てるのに?」
奈々香の声が掠れる。
悠斗は鏡へ近づき、表面へ手を触れた。
指先と鏡像の指が重なる。
「ただの鏡だ」
朔がカメラの映像を確認する。
「撮れてる。今の遅れも入ってる」
「なら原因を探せ」
悠斗が荒く言った。
「三回目だ」
「まだやるの?」
奈々香が叫びかけた。
美月が彼女の腕へ触れる。
「嫌ならやめていい」
「やめたら帰れないかもしれないんでしょ」
「それは決まってない」
「透だって、決まってないって言って一人になった!」
奈々香は涙を拭い、鏡の前へ戻った。
「やる。早く終わらせる」
三往復目。
今度は全員、鏡から目を逸らさなかった。
半分まで進んだところで、奈々香の鏡像が止まった。
現実の奈々香は歩いている。
「奈々香」
美月が呼ぶ。
「止まらないで」
「止まってない!」
奈々香は歩き続ける。
鏡の中では、彼女だけが舞踊室の中央へ残ったままだ。
現実の奈々香が鏡像から遠ざかる。
鏡の中の奈々香は、五人を見送るようにこちらを向いている。
「私、あそこにいる」
奈々香の唇が震えた。
「でも、ここにもいる」
鏡像の奈々香が口を開いた。
声は聞こえない。
「何か言ってる」
澪が立ち止まりかける。
「歩け」
朔が低く言った。
全員で端まで到達する。
振り返る。
鏡像の奈々香が、ようやく動き始めた。
一人で。
ゆっくりと五人へ追いつき、現実の奈々香の位置へ重なる。
その瞬間、鏡面全体が波打った。
奈々香が息を詰める。
「もうやめよう」
美月が言った。
朔はカメラを確認した。
スマートフォンはまだ終了を示していない。
悠斗が歯を食いしばった。
「あと一回」
「悠斗」
「七不思議の噂は、何往復か決まってなかった。条件を満たしてないだけかもしれない」
「さっきは何も起きなかったって言ったでしょう」
「だから終わらせるんだよ!」
声が鏡へ反響する。
「全部、誰かの仕掛けなんだ。確認すれば終わる」
四往復目。
五人は歩き出した。
澪は数を数えないようにした。
それでも鏡の中へ目を向けた瞬間、足が止まりそうになった。
六人いる。
朔。
澪。
美月。
奈々香。
悠斗。
その後ろ。
長い黒髪の少女。
制服の裾が、歩くたび膝の位置で揺れている。
右手首に赤い組紐。
顔は俯いて見えない。
現実の舞踊室には誰もいない。
背後から聞こえるのは五人分の足音だけ。
「見える?」
澪が囁いた。
「いる」
美月の声が硬い。
「後ろに」
奈々香の呼吸が乱れる。
「もう嫌……」
悠斗が突然列から外れた。
「くだらない」
壁際に積まれていた木製の椅子を両手で掴む。
「全部、壊せば分かる!」
「待て!」
朔が止めるより早く、悠斗は椅子を鏡へ投げつけた。
激しい破裂音。
鏡板が大きく割れた。
破片が床へ雨のように降る。
奈々香が頭を庇い、美月が澪を壁側へ押す。
悠斗は息を荒らし、割れた鏡を睨んでいた。
その向こうに、壁はなかった。
暗い空間。
「何だ……これ」
悠斗が呟く。
朔が懐中電灯を向ける。
割れた鏡の裏には、細長い別室が隠されていた。
金属製の棚。
小型プロジェクター。
複数のカメラ。
配線。
そして、鏡と同じ大きさの半透明板が何枚も並んでいる。
「一方通行の鏡だ」
朔が割れた枠を慎重に越えた。
「全部じゃない。一部だけ普通の鏡と入れ替えてある」
美月も裏側を覗く。
カメラの一台は舞踊室の床を撮影する角度へ向いていた。
その映像を数秒遅らせ、半透明の鏡板へ重ねる。
そうすれば。
「一人だけ動きを遅らせられる」
澪が言った。
「映像を切り抜いて、そこだけ時間をずらせば」
「奈々香が止まったのも作れる」
朔が答える。
悠斗が乾いた笑いを漏らした。
「ほら」
笑みは安堵より怒りに近い。
「七不思議なんて最初からなかったんだ。誰かがこうやって作ってた」
裏部屋には、最近まで人がいた痕跡があった。
新しい乾電池。
空になったペットボトル。
携帯食の包装。
まだ埃の積もっていない工具。
床には靴跡が残っている。
大きい。
成人男性のものだった。
朔が光を斜めから当てる。
靴底の溝がはっきり見える。
「二十七から二十八くらい」
美月が五人の足元を見る。
女性三人の靴より明らかに大きい。
同じくらいなのは、朔と悠斗だった。
奈々香の視線が二人へ移る。
朔は何も言わず、自分の右足を持ち上げた。
靴底を見せる。
細かな格子状の溝。
床の足跡は、中央へ太い直線が一本通り、その左右に斜めの模様がある。
「違う」
美月が確認する。
次に、悠斗の靴へ視線が向いた。
「俺じゃない」
悠斗は先回りするように言った。
だが、靴底を見せるまでに一拍遅れた。
床へ片足を上げる。
太い中央溝。
左右へ斜めに入った模様。
よく似ている。
奈々香が後退した。
「悠斗……」
「違う!」
声が裏部屋へ響いた。
「こんな靴、いくらでもある。仕事で現場へ行く人間なら普通に履く。管理会社の人間だってこの学校に入れるだろ」
「管理会社の人間が、私たちを殺す理由は?」
美月が訊く。
「知らない!」
「その共通鍵を持ってきたのも悠斗よ」
「借りたって説明しただろ!」
悠斗の額に汗が浮いている。
「俺が仕掛けたなら、何で自分の足跡を残すんだ。何で自分の時計や靴が疑われる形にする!」
「疑われないと思ったからかもしれない」
奈々香の声は小さかった。
悠斗が彼女を見る。
奈々香はさらに後ろへ下がった。
「俺じゃない」
今度の声には怒りより恐怖があった。
「本当に俺じゃない」
澪は割れた鏡へ視線を戻した。
床に落ちず、枠へ残っている三角形の破片。
そこに、人影が映っていた。
「透……?」
声が勝手に漏れた。
ほかの四人が振り返る。
鏡の破片の中。
五人の後ろに、相馬透が立っている。
黒いパーカー。
首から下げたヘッドフォン。
首元には、磁気テープの黒い跡。
二年七組へ残してきたはずの死者。
澪は振り返った。
誰もいない。
鏡を見る。
透はいる。
顔色は死人のように白い。
唇が動いた。
音は聞こえない。
「何て言ってる?」
美月が鏡へ近づく。
透がもう一度、ゆっくり口を動かした。
か。
い。
だ。
ん。
へ。
い。
く。
な。
「階段へ行くな」
澪が読み取った。
透の目が、まっすぐ澪を見た。
次の瞬間、校内に非常ベルが鳴り響いた。
けたたましい警報音。
五人が身体を強張らせる。
赤い非常灯が廊下の向こうで点滅する。
東棟の方角から、何かが落ちる音がした。
どん。
一段。
どん。
また一段。
人間よりも重い何かが、階段を転げ落ちている。
どん。
どん。
どん。
音は少しずつ近づいてきた。
澪がもう一度鏡を見る。
透の姿は消えている。
代わりに鏡の破片には、東棟の階段だけが映っていた。
そこを、黒い布に包まれた人の形が、頭から一段ずつ転がり落ちていた。
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない
最後の鍵盤が沈んだまま、戻らなかった。 音楽室の中には、逆向きに流れる少女たちの歌声だけが残っている。 声は天井のスピーカーから降っているはずなのに、澪には壁の内側や床の下、閉ざされた楽器棚の奥からも聞こえた。吸い込まれるような発音。終わった言葉から始まり、息継ぎまで逆へ流れていく。 五人は誰も耳を塞がなかった。 スマートフォンに届いた指示が頭から離れない。 途中で耳を塞いだ人は帰れません。 たとえ人間が作った脅しだとしても、透が死んだあとでは試す気になれなかった。 奈々香は両腕を身体の脇へ押しつけるようにして立っている。耳を塞がない代わりに、指先がレインコートの布を強く掴んでいた。「何か入ってる」 朔が言った。 胸元の小型カメラを外し、録音状態を確認している。「歌以外に?」 美月が問う。「低い声。普通に聞くと潰れてる」 朔はカメラから音声だけを端末へ送り、波形を表示した。 透ほど専門的な機材ではない。それでも映像制作の現場で使う程度の処理はできるらしく、朔は周波数を分け、歌声の高い帯域を少しずつ削っていく。 少女たちの声が薄くなる。 その下から、ざらついた息のようなものが現れた。「逆向きだから分かりにくい」 朔の指が画面を滑る。「戻す」 再生方向を反転させる。 さっきまで喉へ吸い込まれていた声が、今度は自然な歌になった。 古い校歌。 少女たちの合唱。 八年前に澪が廊下で聞いたものと同じだった。 胸の奥がざわつく。 窓の外では雨が降り続いている。楽譜の散らばる床を湿気が這い、腐りかけた木材の匂いへ、古いピアノの塗料と錆の臭いが混ざっていた。 歌声の下に、別の声があった。 小さい。 ひどく近い。『鏡を見て』 澪の肩が強張る。 朔が音量を上げる。『本当の人数は、鏡に映る』 音声が途切れた。 五人は同時に、音楽室の奥を見た。 壁際に、大きな姿見が立っていた。 澪は先ほどまで意識していなかった。 高さは一メートル半ほど。木製の枠は黒ずみ、上部の装飾が半分欠けている。鏡面には斜めへ大きな亀裂が走り、蜘蛛の巣状の細い割れが右下へ広がっていた。「こんなの、あった?」 奈々香が囁く。「最初からあった」 悠斗が答える。「入ったとき、壁際に見えた」「私は見てない」「見てないだけだろ」 奈々